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terakoya1983

Author:terakoya1983
世田谷で学習塾寺子屋を1983年から運営しています。
2012年4月から長野県佐久穂町と世田谷区の往復生活が始まりました。大自然から受けとる事も含めてお伝えできたらと思っています。
世田谷教室 月曜日から金曜日
佐久穂教室 木曜日 その他オンライン
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寺子屋日記
寺子屋からのおたよりです。
平成の時間 2
娘に染色異常があるとわかった時

私は娘と2人で医師の前に座ってそれを聞いていた。

まだ目も開かず生後2ヶ月経っても表情のない娘を抱いて。

その時から私の中でもう一人の人に頼れない自分が歩き始めていた。

娘の父親に頼れない自分。

本当の気持ちを伝えられない自分。

きっとそれは自分のくせであり、自分のテーマだったのだと思う。

もしかしたら今もかな?

娘の障害がはっきりして行った時

2つ上の息子と娘は一緒の学校に行けないとふと思った。

そんな時世田谷区の冒険遊び場プレーパークで行われている

自主保育をしている素敵なTさんと出会った。

Tさんはテルミーの先輩でもあり

お二人のお嬢さんを自主保育で育てていた。

私は仕事をしていたので子どもを預けずに

自分たちで保育をする、しかも病弱の娘を抱えて

本当にできるだろうか、ととても不安になった。

それでもTさんの励ましと、そこで遊ぶ子どもたちに触れることで

2年間ここで長男と長女を一緒に育てる日々は

きっとかけがえのないものになるだろうと確信した。

お当番は週に1日か2日。同じ学年のお子さんは5〜6名。

ほぼ、毎日羽根木公園で過ごし、1回は遠出をする。

保育時間は9時半〜2時。

羽根木公園のプレーパークは「子どもが自分の責任において

何をしてもいい場所」

一日中穴を掘り続ける子

葉っぱのプールで遊ぶ子

ログハウスの屋根から飛び降りる子

包丁で何かを切る子

火をつけてお鍋で何かを煮る子

あげればきりがないくらい遊びの種類があり

大人はそれをあえて規制することはなく

安全は見守り、何か問題があると思った時は

相談する。

そんな遊び場に2人の子どもを連れて通った。

私が当番の時は娘はビニールシートに座り

当時娘がハマっていたスーパーのビニール袋を

ひたすら口のところに持って行って

過ごしていた。

娘は2歳。ようやく座れるようになっていたが

まだハイハイはできず、ずっと座っていた。

外からやってきた人はちょっとびっくりして

娘のそんな姿を見ていたのを覚えている。

保育時間が終了すると泥だらけになった息子と

ビニールを満喫した娘を連れて実家の仕事場に向かった。

仕事が終わると2人を連れて自宅へ。

そんな生活を2年続け、息子は小学生になる時

自主保育を卒業した。

のちに息子は

「あの2年間は宝物のような毎日だった」と振り返った。

20年以上たったころ他のお母さんたちが会報誌を作ってくれた。

その一番後ろに卒会の時にとった集合写真が載っていた。

娘にそれを見せると

娘は真っ直ぐに自分の写っているところを指差した。

私に抱かれている娘の写真。

私は涙が溢れた。

息子が話した「宝物の時間」はきっと娘にとっても

同じだったに違いない。

そしてただただビニールをいじっていた娘は

その日々を覚えていた。

人の内面には外から見えない動きがきちんと行われている

ということをこの時娘に教えてもらった。



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平成の時間
今日で平成が終わる。

思えば私の平成は長女の障害を

受け入れるところから始まった。

昭和63年生まれの長女。

8月に生を受けてその2ヵ月後に染色体異常があることがわかった。

「他に例がない異常なので生育を見守って行きましょう。」

目の前が真っ暗になってしばらく泣いて暮らした。

1年経っても首が座らない長女をただ見守っていることはできなかった。

本を読んで情報を求め

京都のボイタ療法の病院に行ったり

埼玉の自然保育することで障害を軽くした実績のある

カリスマ園長に会いに行ったり

神奈川の理学療法の病院に行ったり

反応の乏しい音楽療法も効果があるならと

いいと聞けば娘を抱いてあちこち歩いた。

免疫力のない娘は風邪を引くとすぐ肺炎になり

生死の淵にまですぐに行った。

入院してまた戻ってまた入院。

そんな日々が続いた。

ある時東洋医学のテルミーという温熱療法を叔父がペルーで

施術していたのでそれを見よう見まねで娘に毎日やった。

テルミーの資格がとれる学校へ娘を母に預けて

通った。

しかしどういうわけか娘は私が学校へ行くと

体調を崩し、ずっと泣き続けた。

そんなことを繰り返して行くうちに

私は自分が娘にしていることは本当に娘のためにやっているのか

わからなくなった。

ただ娘はこの世に生を受けて今はとても心細いのだろう

私という身体を通って私から離れたことが

とても大変なことなのだと思い図ることしかできなかった。

ある時娘を抱いてずっと揺すりながら

娘に聞いた。

「私があなたにしていることは

あなたはどう思う?

私はあなたのためにやってるの?

私は私のためにやってるの?」

私は泣いた。ずっと泣いた。

そしたら娘の心の声が聞こえた気がした。

「お母さん、お母さんの愛から生まれたものなら

何をしてもいいよ」

私はまた泣いた。愛ならいいのか。

この子はそれを受け入れてくれる。

私は何かが開いた気がした。

娘は3歳ではいはいができるようになり、6歳で歩けるようになり

入学する年にやっとオムツが取れた。

先生と私に手を引かれ入学式の体育館を歩いたことを

思い出す。誇らしかった。娘が歩けるようになったことが。

オムツが取れたことが。

娘の共に歩いて行くうちに

私の中で私という存在がはっきりと頭をもたげてくるようになった。

自分が何者なのか

自分はどこに向かっているのか

そんなことが鮮明になって行った時

私の中で娘の父親との別れを意識するようになった。

平成の30年間の最初の3分の1で

私は自分と対面して生きて行くことを

娘の魂と共に始めた。






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