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寺子屋からのおたよりです。



   
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プロフィール

terakoya1983

Author:terakoya1983
世田谷で学習塾寺子屋を1983年から運営しています。
2012年4月から長野県佐久穂町と世田谷区の往復生活が始まりました。大自然から受けとる事も含めてお伝えできたらと思っています。
世田谷教室 月曜日から金曜日
佐久穂教室 月曜、金曜、土曜日
連絡先
mail unltd@dream.jp
twitter http://twitter.com/#!/terakoya1983
facebook https://www.facebook.com/idumi.iwaoka
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母たちの夏

   
佐久穂に来て8年目の夏。

二人の母を呼んだ。

近くの上山田温泉に泊まり

ちょうど誕生日だった娘たちを祝ってもらった。

泊まってもらうと言っても

何をできるわけもなく

出荷もあり、収穫もありの日常の中で

腰を下ろすのは食事の時だけという私たちの

生活をみて

母たちは涙ぐんでいた。

農家の夏は暑く、熱く、激しい。

私たちはそれにのかって動いて行くしかない。

野菜は待ってはくれない。

野菜を育てることは人を育てるのとはちょっと違うかも。

どちらかというと待ったなしの

患者を抱える医者の仕事にも近いのではと思うことがある。

だから人の都合ではなんともならない。

それでも日常の中に来てくれた母たちと過ごせた時間は

貴重なもの。

日常の中の非日常。

夏の1ページが過ぎていった。



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寄り添うこと

   

最近、寄り添うということを改めて考えています。

寺子屋の生徒さんとは小学生の時から社会にでた後も関わらせていただくこともあり、人生の長い時間をご一緒させていただくことを本当にありがたいことだと思っています。

親御さんとも関係を持たせていただくのでお互いの家の事情を知っていて。

そんな飾らない関係だからこそ一緒に乗り越えてきたことも多いのです。

いろんなタイプのお子さん。

山あり、谷あり。

学校の中で生きづらさを抱える。

特に中学3年間を過ごすことは多分一番大変だと思います。

そこを通り過ぎ高校になると見違えるほど元気になる方がほとんどです。

それでもその先の人生にはたくさんのドラマがある。

寄り添うってよくしようとかこうしたらと思うのでなく、その状況を受け入れ、信じることなんだと最近思っています。

若い頃「経過を楽しみなさい」とある方に言われたことがあります。

そんな気持ちを今は大切にしたいと思うこの頃です。

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面談月間

   
面談月間

世田谷も佐久穂も面談月間が始まりました。

いろんなお悩みがあります。もっとも多いのは自分の子どもと勉強しているとついつい喧嘩になるという話題です。

これは永遠のテーマですね。

自分の子どもは自分同然。

自分に最も近い存在。

その子どもがいくら説明してもわからない時、ヒートアップしていきますよね。

もそうです!

4人子どもがおりますが、受験の時はいつも悩み、喧嘩し、夫とも議論し、毎回熱くなっています。

でもそれでいいと思っています。

そして家族だけで子育てなんて到底無理です。

おじいちゃん、おばあちゃんの力も偉大です。

でも他人の風を入れることはもっと大事ですよね。

特に子どもが思春期に入ると、親とのコミュニケーションは難しくなります。

私もそうでしたが親をバカにしたくなるからです。

自分の成長と共に親を一人の人間として見るから欠点が見えてくる時期なんですよね。

そうやって切磋琢磨して子育てはずっと続きます。悩んだ時はどうぞご遠慮なくお話くださいね。

みんなで支え合っていきましょう。
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平成の時間 2

   
娘に染色異常があるとわかった時

私は娘と2人で医師の前に座ってそれを聞いていた。

まだ目も開かず生後2ヶ月経っても表情のない娘を抱いて。

その時から私の中でもう一人の人に頼れない自分が歩き始めていた。

娘の父親に頼れない自分。

本当の気持ちを伝えられない自分。

きっとそれは自分のくせであり、自分のテーマだったのだと思う。

もしかしたら今もかな?

娘の障害がはっきりして行った時

2つ上の息子と娘は一緒の学校に行けないとふと思った。

そんな時世田谷区の冒険遊び場プレーパークで行われている

自主保育をしている素敵なTさんと出会った。

Tさんはテルミーの先輩でもあり

お二人のお嬢さんを自主保育で育てていた。

私は仕事をしていたので子どもを預けずに

自分たちで保育をする、しかも病弱の娘を抱えて

本当にできるだろうか、ととても不安になった。

それでもTさんの励ましと、そこで遊ぶ子どもたちに触れることで

2年間ここで長男と長女を一緒に育てる日々は

きっとかけがえのないものになるだろうと確信した。

お当番は週に1日か2日。同じ学年のお子さんは5〜6名。

ほぼ、毎日羽根木公園で過ごし、1回は遠出をする。

保育時間は9時半〜2時。

羽根木公園のプレーパークは「子どもが自分の責任において

何をしてもいい場所」

一日中穴を掘り続ける子

葉っぱのプールで遊ぶ子

ログハウスの屋根から飛び降りる子

包丁で何かを切る子

火をつけてお鍋で何かを煮る子

あげればきりがないくらい遊びの種類があり

大人はそれをあえて規制することはなく

安全は見守り、何か問題があると思った時は

相談する。

そんな遊び場に2人の子どもを連れて通った。

私が当番の時は娘はビニールシートに座り

当時娘がハマっていたスーパーのビニール袋を

ひたすら口のところに持って行って

過ごしていた。

娘は2歳。ようやく座れるようになっていたが

まだハイハイはできず、ずっと座っていた。

外からやってきた人はちょっとびっくりして

娘のそんな姿を見ていたのを覚えている。

保育時間が終了すると泥だらけになった息子と

ビニールを満喫した娘を連れて実家の仕事場に向かった。

仕事が終わると2人を連れて自宅へ。

そんな生活を2年続け、息子は小学生になる時

自主保育を卒業した。

のちに息子は

「あの2年間は宝物のような毎日だった」と振り返った。

20年以上たったころ他のお母さんたちが会報誌を作ってくれた。

その一番後ろに卒会の時にとった集合写真が載っていた。

娘にそれを見せると

娘は真っ直ぐに自分の写っているところを指差した。

私に抱かれている娘の写真。

私は涙が溢れた。

息子が話した「宝物の時間」はきっと娘にとっても

同じだったに違いない。

そしてただただビニールをいじっていた娘は

その日々を覚えていた。

人の内面には外から見えない動きがきちんと行われている

ということをこの時娘に教えてもらった。


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平成の時間

   
今日で平成が終わる。

思えば私の平成は長女の障害を

受け入れるところから始まった。

昭和63年生まれの長女。

8月に生を受けてその2ヵ月後に染色体異常があることがわかった。

「他に例がない異常なので生育を見守って行きましょう。」

目の前が真っ暗になってしばらく泣いて暮らした。

1年経っても首が座らない長女をただ見守っていることはできなかった。

本を読んで情報を求め

京都のボイタ療法の病院に行ったり

埼玉の自然保育することで障害を軽くした実績のある

カリスマ園長に会いに行ったり

神奈川の理学療法の病院に行ったり

反応の乏しい音楽療法も効果があるならと

いいと聞けば娘を抱いてあちこち歩いた。

免疫力のない娘は風邪を引くとすぐ肺炎になり

生死の淵にまですぐに行った。

入院してまた戻ってまた入院。

そんな日々が続いた。

ある時東洋医学のテルミーという温熱療法を叔父がペルーで

施術していたのでそれを見よう見まねで娘に毎日やった。

テルミーの資格がとれる学校へ娘を母に預けて

通った。

しかしどういうわけか娘は私が学校へ行くと

体調を崩し、ずっと泣き続けた。

そんなことを繰り返して行くうちに

私は自分が娘にしていることは本当に娘のためにやっているのか

わからなくなった。

ただ娘はこの世に生を受けて今はとても心細いのだろう

私という身体を通って私から離れたことが

とても大変なことなのだと思い図ることしかできなかった。

ある時娘を抱いてずっと揺すりながら

娘に聞いた。

「私があなたにしていることは

あなたはどう思う?

私はあなたのためにやってるの?

私は私のためにやってるの?」

私は泣いた。ずっと泣いた。

そしたら娘の心の声が聞こえた気がした。

「お母さん、お母さんの愛から生まれたものなら

何をしてもいいよ」

私はまた泣いた。愛ならいいのか。

この子はそれを受け入れてくれる。

私は何かが開いた気がした。

娘は3歳ではいはいができるようになり、6歳で歩けるようになり

入学する年にやっとオムツが取れた。

先生と私に手を引かれ入学式の体育館を歩いたことを

思い出す。誇らしかった。娘が歩けるようになったことが。

オムツが取れたことが。

娘の共に歩いて行くうちに

私の中で私という存在がはっきりと頭をもたげてくるようになった。

自分が何者なのか

自分はどこに向かっているのか

そんなことが鮮明になって行った時

私の中で娘の父親との別れを意識するようになった。

平成の30年間の最初の3分の1で

私は自分と対面して生きて行くことを

娘の魂と共に始めた。




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